たしかに、よしたに。

あんな人やこんな人について、考えたことを書きます。すこしでも「たしかに」となりますように。

『セッション』する人について。

『セッション』という映画を観た。

 

ところで(いきなりですが)、

ぼくには、映画を観ているときならではの

「クセ」みたいなものがある。

 

「どうしてこの映画をつくったんだろう?」

 

この問いの答えを、常に考えてしまう。

 

本を読んだり、音楽を聴いたりするときは、

ほとんどそんなこと考えていない(と思う)。

なのに、映画を観ているときだけ、

「これをつくろうと思った動機はなんだろう」

「伝えたかったことはなんだろう」

と考えながらストーリーを追ってしまうのだ。

 

雑誌などの監督のインタビューで

「正解」を知ることができるかもしれない。

でも、あまりそれを知ろうと思わない。

ただ「自分の考え」を知りたいのだろう。

 

もうひとつ、クセがある。

 

映画を観ていると「ことば」が浮かんでくる。

 

その「ことば」は、

その映画を象徴するひとことだったり、

自分が受け取ったメッセージだったり。

これは、「考えている」というより、

自然と頭に「浮かんでくる」ことが多い。

 

たとえば、

ショーシャンクの空に』なら、

<ナレッジ・イズ・パワー>だった。

 

『ベイマックス』なら、

<学校に行くということ>だった。

 

さぁ、やっとこさ話をもどして、

『セッション』という映画について。

 

この作品を観ながら考えていた、

「どうしてこの映画をつくったんだろう」

という自問への答えは、

<どうしてもつくりたかったんだろうな>

という、みもふたもないものになった。

 

そして、作品からのメッセージ

(頭に浮かんできたキーワード)は、

<たのしめてるか?>だった。

 

ほかにも、

「才能を引き出すのは本人か?他人か?」とか、

「主体性を生むのは強制からなのか?」とか、

「成長を阻むものはいつもプライドだな」とか、

いろいろなことを考えていたけれど、

 

「ヘイ、みんな!寝食を忘れるくらい

 なにかに夢中になってるか?

 俺は映画づくりさ!」

 

そんなふうに、つくり手(監督)と

セッションしてる気分だった。

 

(たしかに、よしたに。)

 

 

自分の名前を連呼する人について。

さぁ、やってきた。

休日の朝から拡声器を使って

大声で自分の名前を連呼する人々が

あちこちで現れる季節。

そう、「選挙」である。

 

都内では選挙カーがワーワー騒ぎ立てていて、

たしかにすこしイラっとするときもあります。

しかし、彼ら(彼女ら)も、ある意味では、

「就活生」なんですよね。

リクルートスーツを着て、

スタバでヨーグルトフラペチーノを

飲みながら業界研究している

けなげな女子大生だとおもえば、

「ファイト!」と言いたくなります。

 

けれど、あまりにも、

自分の名前を連呼する立候補者の多いこと。

 

「どうせ立ち止まって

 じっくり聞いてもらえない」

と、タカをくくっているのかな。

 

「名前だけ覚えてもらおう」

と、一点突破の発想なのかな。

 

「私はきょうもココで活動しています」

と、それだけ伝わればいいのかな。

 

なんであれ、

企業への就職活動だとしたら、

そうはいかないだろう。

 

面接官「では、自己PRをお願いします」

志願者「よしたによしたに

よ・し・た・に・です!」

 

5秒で面接終了だろう。

 

選挙と就職活動はちがうものだけれど、

もっと「自分の考え」を話すことを

大切にすべきじゃないだろうか。

 

あと、選挙の時期にいつも思うのは、

あれだけ「お願いします!」と言っていた

候補者たちが、選挙がおわると

ピタっと姿を見せなくなるのは、

おこづかいがほしいときだけ、

お母さんの言うことを素直に聞いて、

お金をもらえたら遊びに行ってしまう

小学生のようだなぁ、ということ。

 

たとえ落選しても、当選しても、

「御礼」の街頭演説ができるような

仕組みにしたらどうでしょうか。

 

すくなくとも、ぼくは、

そういう候補者に投票したい。

 

(たしかに、よしたに。)

「なかなかボタンを押せなくて」と言う人について。

ぼくのことである。

 

このブログに投稿した文章は、

26日まえのものが最後となっている。

 

途中まで書けている記事、

ほぼ完成している記事のドラフトは

evernoteに6つほどある。

では、どうして「投稿ボタン」を

押すまでに至らないのか。

 

それは、「ビビっている」から。

「ライター」とつく仕事をしているとか、

(誤字脱字はないか‥‥?ヘタじゃないか‥‥?)

もしもこれをクライアントが読んだらとか

(だれも傷つけていないだろうか‥‥?)。

 

書いているときはアクセルを踏むけれど、

いざ「投稿」というところまでくると、

いろいろ考えてブレーキをかけてしまう。

 

なかでも、4/1に書いていた

「新社会人のみなさんへ」

という記事は来年までお蔵入りだろう。

 

 ‥‥と、テキトーに書いているうちに、

これで1記事できて、安心しています。

 

なにごとも、「さぁやるぞ」と

机に向かって気合いを入れようとするより、

「いつのまにか、はじまっていた」くらいが

ちょうどいいものですね。

 

こんな感じで、内容はともかく、

じぶんの頭の整理のためにも、

なるべくマメに書いていこうと思います。

実は、なにも書いていなくても、

1日に60人くらい誰かがここを

訪れてくださっていますので‥‥。

(誰なのかわかりませんが感謝です)

 

さいごに、自分の備忘録のために、

ここ1ヶ月ほどで読んだ本を記しておきます。

*読んだ時系列順にしました。

 こうして見ると、自分がそのとき、

 何に興味を持っていたのかわかりますね。

 

『How  Google Works』エリック・シュミット

非営利組織の経営』P・F・ドラッカー

『GO WILD』ジョン・J・レイティ

『街場の戦争論』内田樹

『作家の愛したホテル』伊集院静

『インターネット的』糸井重里

『知ろうとすること。』糸井重里・早野龍五

『思考のレッスン』丸谷才一

『投資家がお金よりも大切にしていること』藤野英人

『低予算でもなぜ強い?湘南ベルマーレと日本サッカーの現在地』戸塚啓

『コンサル100年史』並木裕太

『新しいお金術』松浦弥太郎

『近くて遠いこの身体』平尾剛

 

ほかにも、手元になくて忘れたもの、

本屋でさらっと読んだものがありますが、

よく覚えているのはこのあたりです。

雑誌は、『BLUTUS』などのカルチャー誌から、

『暮らしの手帖』まで、幅広く読んでいます。

 

とくに人にオススメしたいのは、

・『思考のレッスン』

・『投資家がお金よりも大切にしていること』

でしょうか。

 

・『低予算でもなぜ強い?湘南ベルマーレと日本サッカーの現在地』

・『コンサル100年史』

 

この2冊については、

冒頭の「投稿していない記事」の1つに

読んだあとの感想のようなものを書いています。

いつか投稿ボタンを押したいと思います。

 

おわかりのように、今回は、

とくに「たしかに!」ポイントが

ありませんでした。

 

(たしかに、よしたに。)

希望を胸に生きる人について。

先週、『ショーシャンクの空に』を観た。
 
この映画から受け取ったものは、
3つの言葉になって、いまも胸のあたりに
ずしーんと重く置いてある。
 
「ナレッジイズパワー」
 
なぜか「知識は力なり」じゃなかった。
カタカナの姿で降ってきた。
 
どうして人は、勉強をするのか?
それは、友人が困っているときに
救ってあげるためと、どこかで読んだ。
 
受験勉強は、競争だ。
「まわりを蹴落とした人」が勝つ。
けれど、実際の社会では
そんな人の周りには誰もいなくなる。
天才をのぞいて、ほとんどの仕事は、
だれかと協力し合いながら、
だれかの役に立つためにある。
 
『強い者は生き残れない』という本に、
生物学では「強い=生き残る」と考えたとき、
競争をするより、協業するほうが
生き残ることができると書いてあった。
(ものすごくざっくりですけど)
 
主人公・アンディーは、
まさに「ナレッジ」を「パワー」にした。
決して「おびやかすような権力」ではなく。
そして、彼は周りのために尽くし、
刑務所内のヒーローになり、生き残った。
 
2つめ。
 
「人生には芸術が必要だ」
 
刑務所のなかは、衣食住は保証されている。
けれど、やっぱりそれだけじゃ
人間の「心」までは満たされなかった。
 
アンディーがフィガロの結婚』のレコードを
刑務所内に大音量で勝手に流すシーン。
その美しい歌声を聴き入るように
いっせいに静まり返る刑務所内。
もちろん所長につかまってしまうが、
懲罰房から出てきたアンディーは言う。
 
「心のなかでモーツァルトを聴いていた。
 音楽は決して人から奪えない」
 
人生には、美しい音楽や絵画が必要だ。
あらためて、そう思った。
そうだ、上野 行こう。
 
そして、3つめ。
 
「希望を捨てちゃいけない」
 
映画のなかで
「必死に生きるか。必死に死ぬか。」
というセリフが2回でてくる。
 
ちょうどこの映画を見終わったあとに、
とある後輩からメールがきていた。
 
彼は、半年ほどまえから、
ぼくにある相談をしてきていた。
民間企業に就職して数年、
やっぱり夢を追うために脱サラをして
ラグビーのプロ選手になりたいんです、と。
 
そのままそこで働いていたら、
ある程度のゆとりある生活を送りながら、
生きていくことはできただろう。
けれど、彼は真剣に話してくれた。
 
「笑わないでください。
 W杯に出たいっていう夢があるんです。
 小さくてもできることを証明したくて」
 
移籍して受け入れてくれるクラブを探して、
両親を説得して(これがけっこう難航した)、
やっとのことで正式にプロ転向が決まった。
その報告のメールが、映画を見終えたとき、
ちょうどやってきたのだった。
 
そこには、こう書いてあった。
 
「夢と希望でいっぱいの24歳は、
 これからの自分を想像すると
 楽しみで仕方がありません」
 
彼は、「必死に生きる」ほうを選んだ。
いずれにせよ、生きることは、必死なのだ。
ただ、胸のなかに希望があるかどうか。
 
うまくいくとは限らない。
どん底のときだってあるだろう。
けれど、あとで振り返ったときに、
「あれがあったからこそ」と
思えるように生きればいいだけだ。
 
アンディーと後輩へ。
おれも、希望を胸に生きようと思えたよ。
ありがとう。
 
「希望」
 
この言葉の美しさを、
あらためて感じさせてくれる映画だった。
 
4年前の3.11のあとは、たくさんの人たちが、
じぶんに嘘をつかず、希望を胸に、
「必死に生きる」ことを心に決めていたなぁ。
 
 
(たしかに、よしたに。)
 
 

リクルートスーツを着る人について。

今年もこの季節がやってきた。
 
都内のあちこちのカフェが、
髪をうしろにひとつに結び、
黒のスーツを着た女の子たちであふれる。
 
これ、不思議なのが、
男子はあんまりいないんだよなぁ。
この国では女性しか就職活動していないのか?
と、思ってしまうくらい。
 
いや、そんなことを言うと、
「ここにいますけど」って
男子学生が出てくると思うんです。
 
で、すこし考えてみると、
「女の子は目立つ」んじゃないかと。
それはきっと、「スーツ」の問題だと思う。
 
男子学生は就職活動をするときに、
一般的にはスーツを着るけれど、
(まだ社会人でもないのに不思議だけど)
社会に出てからも、同じようなスーツを着る。
 
でも、これが女の子となると、
働きだしたら、ほとんどの人が
あの「リクルートスーツ」という
まっ黒の服を着なくなる。
 
日本では80年代くらいから、
男女が平等に働ける社会をつくりましょうや
という法律ができたものの、なんだかんだ、
女性には公の場で着る「制服(正装)」がない。
 
それは、結婚式などのときにもよく思う。
男性は、とりあえずスーツを着てくればいい。
かたや、女性を見てみると、
適切な言い方がどうかわからないのだけれど、
「銀座のお水の商売」みたいになっている。
髪型にしてみても、
「どうしてそんなに空へ舞い上がったのか」
っていうくらいリーゼントみたいな人もいる。
 
Googleで「男性 正装」と画像検索すると、
タキシードか袴の男性が、ほぼ、現れる。
でも「女性 正装」で同じことをすると、
ワンピース、ブラウス、着物、
どこかの民族衣装みたいなものから、
肌がスケスケのお姉さんまで出てくる。
 
就職活動をしているときしか着ない、
制服でもない、仕事服でもない、
正真正銘の「リクルートスーツ」。
だから女の子がそれを着て街にいると、
「あ、就職活動してる」と目立っちゃう。
 
‥‥と思っているのだけれど、
スーツを着た若めの男の子はあんまり
スターバックスにはいないよなぁ。
煙草の吸えるドトールとかにいるのかな。
 
(たしかに、よしたに。)
 
 

スターバックスにいる人について。

コストパフォーマンスが高い。
 
そう書くと、「えっ」と、
驚かれる人もいるかもしれない。
 
1杯のホットコーヒーが
トール(350ml)で345円。
 
おかわりをすると
(その日限りで店舗は問わない)
1杯が、108円になる。
 
つまり、2杯(750ml)で、
453円となる。
 
ちなみにドトール
ホットコーヒーLサイズは、
270mlで320円。
 
スターバックスのトールサイズ2杯分と
おなじ量に換算すると、530円。
80円ちかく安いことがわかる。
 
それでいて、
インターネットがつながっている。
もちろん無料であり、電源だって
ほとんどの店舗に設置されている。
 
スターバックスにいる顧客は、
そのほとんどが「1人」だと思う。
のこりは、恋人同士、保険の営業、
英語個人レッスン中の人たち、
この時期だとOB訪問などの、
「2人」であることが多い。
 
4人くらいの人数で
都内の店舗に入ろうと思うと、
同時に4席も空く確率は低い。
 
では、その「1人」は何をしているのか。
 
 
一緒に食事をしている友人が、
トイレに席を立った瞬間に
スマートフォンを取り出す。
そんな光景をよく見かけるくらい、
「1人になったらスマートフォン」の時代。
 
そこからニュースを入手して、
友達との連絡や、その近況をながめたり、
音楽を聞きながら、ゲームをしたり。
 
もちろん勉強をしている人、
仕事をしている人もたくさんいる。
しかし、いずれにせよ、「1人客」は
「電源」と「電波」を要することが多い。
 
それらがすべてそろっていて、
なおかつ、コーヒーを2杯のんでも、
453円(友人とシェアすれば1人227円)。
 
「なにをいまさら」と思われるかもしれない。
でも、スターバックスは、やっぱりいい。
 
ちなみに、ぼくがスターバックス
コーヒーを頼むときには、
ちょっとした2つのこだわりがある。
 
夏場をのぞいて、
ドリップコーヒーのホットは、
だいたい2種類の豆が用意されており、
オーダーをすると店員さんから
「どちらにしますか?」と聞かれる。
ぼくは、かならず、
「落としてから時間が
 経っていないほうでお願いします」
と答える。
 
つまり、コーヒーがドリップされてから
時間があまり経っていない「新鮮」なほう。
 
「スタバのコーヒーは美味しくない」
そう言う人のほとんどは、
落としてから時間が経ってしまった
酸味の強くなったコーヒーを飲んでいると思う。
 
淹れたて(落としたて)は、
香りが、ぜんぜんちがう。
そして、酸味がほとんどない。
さらに、温かさがちがう。
 
スターバックスは1時間経過すると
コーヒーをすべて廃棄する。
逆に言えば、落としてから55分経った
コーヒーを飲むことだってある。
ちなみに、タリーズコーヒー
30分で廃棄と決められているので、
スターバックスよりは新鮮な
コーヒーに出会えることが多い。
 
もうひとつのこだわりは、
「マグカップ」で頼むということ。
 
紙カップはそのまま
テイクアウトできるメリットがあるものの、
どうしても「香りまで楽しめない」のだ。
 
コーヒーの楽しみは、香りにもある。
マグカップで飲むときは、
コーヒーと鼻の距離が近くなり、
きちんと香りをかぐことができる。
 
ついでながら、夏場になって
アイスコーヒーを頼むときには、
「スリーブ」を付けてもらう。
あの、ダンボールのような素材の、
手を熱さから守るアレである。
 
夏のドリンクは汗をかく(結露)。
しかし、あのスリーブがすべて吸収し、
テーブルがまったく汚れないのだ。
 
「冷たいドリンクですと
 すべって取れやすいのでご注意ください」
と店員さんに言われてしまうけれど、
今年の夏、よろしければお試しあれ。
 
 
(たしかに、よしたに。)
 
 

批判をする人について。

ある人と話をしていたら、
こんなエピソードを話してくれた。
 
その人が高校生だったときのこと。
授業中に居眠りをしていたら、
学校から親が呼び出されてしまった。
 
ちなみに、ぼくが通っていた高校では、
授業中に生徒の9割が机につっぷして
寝ていることは日常茶飯事。
(それを『視聴率が低い』と呼んでいた)
 
週刊少年ジャンプ』を3週分読破する者、
カップ麺の湯気が頭上に立ちこめている者、
‥‥ここでは書けないものもふくめて、
実に、授業以外のことにみんな熱心だった。
 
我が母校では、居眠りくらいで(失礼)
親がいちいち呼び出されていたら、
まいにちが授業参観の様相を呈してしまう。
それほど、彼女の通っていた高校は
立派な進学校なのだろう。
 
「それはたいへんだったね」と
あいづちを打ちながら、ぼくは考えた。
 
「もしもじぶんが親だったら」
 
じぶんの子どもが居眠りをしていて、
学校から呼び出されてしまったとき。
ぼくなら、どんな振る舞いをするだろう。
 
先生「娘さんが授業中に寝ていましたけど」
 
さぁ、こちらの答弁がはじまる。
 
「うちの娘は西島秀俊のファンです。
 仮に、西島秀俊が先生だったら、
 2徹の麻雀明けでも目を光らせると思います。
 つまり、ワクワクしているからです。
 生徒が居眠りしてしまうほど、
 驚くほど退屈な授業をしている先生を、
 わたしが自宅に呼び出したいくらいです。
 娘が給料をもらって働いていて、
 居眠りしているならお詫びします。
 ですが、こちらは授業料を払って、
 その対価を享受する立場にあります。
 そこのところ、いかがでしょうか
 
 
誕生の瞬間である。
 
 
いえ、ちゃんとお断りしておきたいのは、
実際にこのシチュエーションだったら、
「どうして眠かったの?部活の朝練?」
「あなたの目標はなんだっけ?」
「つらいけど、授業をちゃんと聞かないとね」
と娘と話し合っている。
 
なにを言いたいのかというと、
『しようとおもえば、なんでも、
 クレーム(人のせい)にできる』
ということだ。
 
ちなみに、ぼくは、お金を払う側も、
もらう側もおなじ立場だと思っている。
「お客様は神様」って、ちがうだろう、と。
 
サービスを提供する人がいるから、
それを受けとることができる。
コンビニの店員が深夜にシフトを入れて
働いてくれていなければ、
缶コーヒーひとつだって買えない。
だから、コンビニの店員にも、
「ありがとうございます」とかならず言う。
 
「新人なもんで‥‥」と言う
タクシーの運転手に横柄な態度をとる人も、
「こっちはカネを払ってるんだぞ」
という気持ちがどこかにあるのかもしれない。
そこをたまたま通ってくれたのだ。
いいじゃないか。道くらい教えてあげれば。
 
ホテルオークラの雑誌広告で
「叱られなさい。」というコピーがあった。
そこにはこんなことが書いてある。
 
「お客様に叱っていただくことが、
 どんなに貴重なことなのか。
 叱っていただける信頼関係をいくつ、
 つくることができるのか。
 ホテルオークラが存在するための証です。」
 
批判をする人、クレームを言う人は
どこの世界にも、かならずいる。
やろうとおもえば、どんなことでも、
人のせいにできるから。
 
けれど、クレームを言ってくる人がいたら、
ホテルオークラの姿勢のように、
「そうか、もっとよくなるかも」と思う。
いちど怒られた相手には、
そのあと信頼回復しようとがんばれば、
それ以前よりも親密になることは多い。
 
嫉妬のような批判をしてくる人がいたら、
「それほど誰もやっていないことをできている」
と思うようにすればいいのだ。
みんなが拍手で迎えてくれるようなことは、
たいてい、もうすでに世の中で認められた、
時代おくれのものなのだから。
 
 
批判こそが、ホンモノの賞賛なのだ。
 
 
(たしかに、よしたに。)
 
 

「かゆいところないですか?」と言う人について。

美容室のシャンプーが苦手だ。
 
高校生のときから、
いろいろな人に話している。
 
「あれってコントだよね」と。
 
まず、もうしわけ程度のハンカチ。
どうして、もっと、顔全体を
覆ってくれないのだろうか。
(顔にハンケチーフを乗せられるのは、
 葬式のときだけでじゅうぶんだ)
 
いざ、シャンプーがスタートする。
 
「お湯加減はいかがですかー」
 
「大丈夫です」(実際の声)
「いや、ちょっと熱いけど‥‥」(心の声)
 
「ちから加減はいかがですかー」
 
「大丈夫です」(実際の声)
「痛かったらすぐ言ってます」(心の声)
 
「かゆいところないですかー」
 
「大丈夫ですー」(実際の声)
「この状況でかゆいってどんなよ」(心の声)
 
こんな会話をしている頃には、
もうしわけ程度のハンケチーフが、
しゃべりすぎたせいでズレている。
シャンパー(シャンプーをする人)と
目が合ってしまわないか、
シャイなぼくとしては不安でしかたない。
 
いっそ、聴力検査のときのように、
「大丈夫です」のときは手元のボタンで
「ピー」と押す仕組みはどうだろう。
 
そして、極めつけはコレだ。
 
「洗い流し足りないところないですか?」
 
それは洗っているあなたが
いちばんよく見えているはずだ。
こっちは目をふさがれているのだ。
 
いろいろツっこみたくなる、
美容室での不思議なシャンプータイム。
みなさんは、どんな風にあの時間を
過ごしているのでしょうか。
 
これは余談になってしまうけれど、
(そして、きわめて個人の考えだけれど)
シャンプーって、ほんとうに必要だろうか。
いや、髪を洗うことは必要なのだ。
あの「シャンプー液」の話である。
 
ベトベトの整髪料をつけていなければ、
まいにち、お湯で、時間をかけて
洗っていれば、99%の汚れは落ちる。
嫌なニオイだって、ほとんどしない。
 
ほとんどの人にとって、シャンプーは、
髪を洗っているんじゃない。
「匂いをつけている」のだと思う。
 
あと、シャンプーとリンスは
裏側の表示をみればわかるように、
ほとんど同じ成分でできている。
ただ、リンスには油分が入っている。
シャンプーで落とした頭皮の脂を
また、つけているのだ。
 
売り手にとっては、
シャンプーだけを売るより、2倍売れる。
でも、2倍のシャンプーとリンス液が
排水として海に流れていく。
 
だまされたと思って、
3日くらい、お湯だけで
丁寧に頭皮を洗ってみてください。
もしだれかに「臭いんだけど」と言われても、
一切責任は負いませんのであしからず。
 
(たしかに、よしたに。)
 
 

署名がやたら長い人について。

あたりまえだとおもっていたけど、
よくよくじぶんの頭で考えると、
「ほんとうにあたりまえか?」
と思うことが、けっこうある。
とくに、社会人になってから、
「なんですかそれは」というものが多い。
 
その1つが「メール」である。
まず、「署名」という制度。
 
==============================
 
こんなのとか、
 
//////////////////////////////////////////////////////
 
こんなふうに照れているものや、
 
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 
こんな錯視テストのようなものまで。
思い思いの「ボーダー」で仕切られている。
これって、果たして必要だろうか。
 
 
それではよろしくお願いいたします。
 
株式会社◯◯◯◯
田中太郎(仮)
 
 
これでいいんじゃないか。
手紙を書いて、最後に名前を書くとき、
そこだけビーーって線を引かないもの。
 
たまに発生する事案が、
 
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
 
 
このように、とにかく長すぎて、
iPhoneなどの画面でみると
ワケがわからなくなってしまっている状態。
 
あと、不思議に思うのは、
 
E-mail:*******@****.co.jp
 
こんなふうに、
メールアドレスが書かれていること。
 
いまぼくが読んでいるこのメールは、
だれから送られているのでしょうか。
差出人に書いてあるのに、
わざわざ念押しするのはどうしてだろう。
 
ほかにも、この「署名絶対領域」に、
 
「弊社サービスセミナー開催中!」
「挨拶強化月間中!」
「〜お客様とともに、明るい、未来へ〜」
 
こんな、広告的な「お知らせ」や、
「それは御社内でやっていただけますか‥‥?」
といったインナー向けメッセージまで。
 
なんでもアリな、この「署名」。
どこまでがルールで、どこまでが自由なのか。
 
手紙やFAXでやりとりをしていたのが、
E-mailになってまだ20年も経っていない。
 
「お世話になります。」でも、
「いつも大変お世話になっております」でも、
どっちでもいいじゃないか。
いつも「◯◯さん」と言っている人を、
わざわざ「◯◯さま」と書かなくても
そんなに怒られないんじゃないか。
 
そんなカタチだけの体裁よりも、
伝えたいことをわかりやすく、
一方的にならないように書くとか、
目上の人に対しては
「了解です」と書かずに
「かしこまりました」と書くとか。
 
署名ボーダーラインを
★にするか◯にするか悩むより、
そういうところを気にすることのほうが
よっぽど大切なんじゃないか。
 
 
(たしかに、よしたに。)
 
 

「なるほどですね」と言う人について。

後輩のイデ(仮名)は、
よく会社のデスクで電話をしている。
その彼が、電話をしながら
口癖のように言うセリフがある。
 
「なるほどですねー」
 
多いときは約6秒に1回のペースである。
連呼バージョンもある。
 
「なるほどですねぇーなるほどですねぇー」
 
ボタンでも押してるのかと思った。
 
「なるほど」に「です」を添えて、
さらに、共感を誘う「ね」をふりかける。
それは、まるで、から揚げに豆大福を添えて、
ピーナッツバターをかけたような
「めちゃくちゃですやん」な料理。
そんな違和感を、このことばに感じている。
 から揚げは、から揚げだけで美味しい。
「なるほど」でいいじゃないか。
 
普段はそんなことばを使わないのに、
「ビジネス同士」の関係になるとよく聞くことば。
かんたんに思い出しても、けっこうある。
 
たとえば、なんでも2文字のことばをくりかえす。
 
「ほぼほぼ」
 
「いまいま」
 
ビックリしたのは、
 
「すぐすぐ」
 
そんなにおれはグズグズしてるか、と思った。
 
ほかにも、
 
「変な話」
 
ぜんぜん変じゃないことが多い。
 
あと、営業職の人が、
質問されたときによく使うのが、
 
「それでいうと」
 
そりゃ「それ」について言ってほしいけど‥‥。
(こんど、美容室に行って
「どんな髪型にしますか?」と聞かれたら、
「それでいうと‥‥」と返してみようかな)
 
これらのことばのほとんどは、
ビジネスにおいて会話のリズムをつくるための
「つなぎ」の役割なのだと思う。
そこに意味なんてないのだ。
英語でいう「let me see..」「 well..」や、
政治家でいう「‥‥いうふうに」のように。
 
ラジオのDJがヴォサノヴァをBGMに、
 
「こんな雨の日の午後の日曜。
 だれかが淹れてくれたジンジャーティーを
 飲んで温まるなんてのもいいなぁ。
 そんな相手はいないけど。うふふ。
 Yeah, ***(いきなり早口英語で聞き取れない)
 
なぜかタメ口で、こんなふうに話すのに近い。
あくまで「つなぎ」であり、中身はないのだ。
 
仕事になると、
普段は使わないことばを使ったり、
「営業っぽく」話したりする人は多い。
「そりゃ仕事だから」と言う人もいるだろう。
でも、ぼくの知っている優秀な営業マンは、
みんな「ほんとうのその人」に見える。
だから、信頼したくなる。
じぶんの利益や都合よりも、こちらのことを
本気で考えてくれてるなぁと思える。
 
人は、いろんな主語になれる。
ママのときもあれば、上司のときもあり、
お稽古の生徒になるときだってある。
もちろん、どれも「じぶん」だ。
でも、仕事をしているときこそ、
ほんとうのじぶんでいいんじゃないか。
1日のほとんどは働いているのだから。
 
「仕事のときは仕事のワタシ」。
それも、強気になれたり、
何かを割り切ったりする手段かもしれない。
けれど、無理をしながら仕事をしていると、
ほんとうのじぶんがいったいどこにいるのか
わからなくなってしまうと思う。
 
「オンとオフ」っていう考え方が、
もう時代遅れなんじゃないかしら?
『ありの〜ままの〜』という歌が
流行っている世の中ですから。
 
 
(たしかに、よしたに。)