『セッション』する人について。
『セッション』という映画を観た。
ところで(いきなりですが)、
ぼくには、映画を観ているときならではの
「クセ」みたいなものがある。
「どうしてこの映画をつくったんだろう?」
この問いの答えを、常に考えてしまう。
本を読んだり、音楽を聴いたりするときは、
ほとんどそんなこと考えていない(と思う)。
なのに、映画を観ているときだけ、
「これをつくろうと思った動機はなんだろう」
「伝えたかったことはなんだろう」
と考えながらストーリーを追ってしまうのだ。
雑誌などの監督のインタビューで
「正解」を知ることができるかもしれない。
でも、あまりそれを知ろうと思わない。
ただ「自分の考え」を知りたいのだろう。
もうひとつ、クセがある。
映画を観ていると「ことば」が浮かんでくる。
その「ことば」は、
その映画を象徴するひとことだったり、
自分が受け取ったメッセージだったり。
これは、「考えている」というより、
自然と頭に「浮かんでくる」ことが多い。
たとえば、
『ショーシャンクの空に』なら、
<ナレッジ・イズ・パワー>だった。
『ベイマックス』なら、
<学校に行くということ>だった。
さぁ、やっとこさ話をもどして、
『セッション』という映画について。
この作品を観ながら考えていた、
「どうしてこの映画をつくったんだろう」
という自問への答えは、
<どうしてもつくりたかったんだろうな>
という、みもふたもないものになった。
そして、作品からのメッセージ
(頭に浮かんできたキーワード)は、
<たのしめてるか?>だった。
ほかにも、
「才能を引き出すのは本人か?他人か?」とか、
「主体性を生むのは強制からなのか?」とか、
「成長を阻むものはいつもプライドだな」とか、
いろいろなことを考えていたけれど、
「ヘイ、みんな!寝食を忘れるくらい
なにかに夢中になってるか?
俺は映画づくりさ!」
そんなふうに、つくり手(監督)と
セッションしてる気分だった。
(たしかに、よしたに。)