たしかに、よしたに。

あんな人やこんな人について、考えたことを書きます。すこしでも「たしかに」となりますように。

たった1文字に敏感な人について。

老眼鏡をかけているくらいの年齢の人ならば、たいていの人が知っているようなラグビー界のスターがかつて存在していて、平尾誠二というお方なのですが、人から聞いたり本を読んだりしてこの人のことを知れば知るほど、男も女も惚れる人だったのだろうとわかる。

いつもオープンでありながら、迎合することを嫌い、「あ」と思ったらすぐに立ち上がり、そして、情熱をもっていた人なのだと思う。さらにいえば、ラグビーから学んだことをラグビーだけにとじこめておかず、あらゆるスポーツや社会とつなげて考えられていたんじゃないか、とぼくは思う。

ヘタクソなりに人を育てたり、チームをつくったりしている身として、あらためて最近、羽生善治さんや山中伸弥先生などあらゆる分野のトップの人たちから尊敬される平尾さんの本を読んでいるのだけれど、やっぱり、「あぁ、こうでありたい」と思うところがたくさんあるのです。

なかでも、「あぁ‥‥!」と思ったのが、

ひとりはみんなのために。
みんなはひとつのために。

という一文。

世の中のあちこちに「one for all all for one」という言葉の翻訳文はあふれているけれども、まさか、さいごのoneを「ひとり」じゃなくて「ひとつ」と訳しているとは。たしかに、そのほうが、より強いチームをつくるうえでも、教育的にも必要なことかもしれない。

「ひとり」のために「みんな」が助けてあげているような組織は、「ひとり」の力が最大限に発揮されていないので弱く、「ひとつ」の目的や大義に向かって「みんな」が向かっていく組織こそが強いんだよ、と、たった1文字のちがいで伝えているように思うのです。

平尾さんは、著書のなかでもたびたび「言葉の大切さ」を説かれてますが、やっぱり、ものすごく言葉にこだわってたのだろう。いや、もっといえば、コミュニケーションにこだわっていたようにみえる。

ピッチャーがマウンドに立っているときのように、とにかくバッターをよく観察して、相手のことをできるだけ理解して、どんな球(言葉)をどんな速度(話しかた)で投げればいいのかを考えていたのだと思う(ん、それは、キャッチャーの役割‥‥?)。

いわゆる「コミュニケーション力の高い人」っていうのは、受け手と送り手を往復している人。平尾さんの言葉を読んでいると、そんなことを思います。


(たしかに、よしたに。)