たしかに、よしたに。

あんな人やこんな人について、考えたことを書きます。すこしでも「たしかに」となりますように。

隣人を愛する人について。

 

Instagramに写真を投稿するOLも、大きな口を開けてワーワー泣く赤ちゃんも、なんだかやる気のない困った若手社員も、詩や音楽や絵を創造しつづけてきた芸術家たちも、世界になにかを発信してる人たちというのは、せんじつめていっちゃえば、

 

「オレのことわかってくれよぅ!」

 

なんじゃないか。

だから、「いいね!」(あなたに共感したわよ)って通知がくると、「わかってもらえたぁー!」って、うれしくなる。

人はみんなわかってほしい。だから、「汝、隣人を愛せよ」ということばが、2000年くらい前から、ずーーーっと世界中で愛されてるんだと思う。

「傾聴」とか「リスペクト」も、「汝、隣人を愛せよ」という豊かなメッセージに包まれているように思う。だって、「隣人」ってナンジャソレ。「家族」でも「親友」でも「友人」でもない、ものすごく嫌いな人かもしれないのに、「そいつも愛しちゃおうぜ」です。

で、愛しちゃうもんだから、愛されちゃう。よく小学校とかで教室がうるさくて、先生が「静かにしなさーい!」って言うけれど、あれは、あんまり効果はなくて、反対に、先生が、

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 

って沈黙すると、あらふしぎ、教室は静かになる(ついでに「静かになるまで1分かかりました」とかいう)。つまり、「黙らせたいときは、じぶんが黙る」っていうのが、いちばん効果があるんだ。

人間は、みんな「わかってほしい」。だから、まずは「わかってあげる」。そのために必要な精神は「汝、隣人を愛せよ」ということなのか。

あと、よく聞く「マネジメントには傾聴を心がけよ」ということばの落とし穴は、「聴くだけじゃがっかりさせちゃう」ってところだと思うんです。「うんうんうんうん」とあいづちをして、傾聴する「態度」だけ見せちゃうと、「まずは部下への理解を示して、それからじぶんの言うことを理解してもらうため」とか「とにかく気持ちをしずめてもらうため」の傾聴になっちゃうことがある。そうすると、聴いたはいいんだけど、そのあと、その「傾聴した話」をふまえてなにかアクションがないときに、「あれは聴いたフリだったのかよ!」となりかねないんだよなぁ。

「傾聴」は、態度のことじゃない。こころの表現のひとつだ。だから、あらためて、「汝、隣人を愛せよ」ってことなんだよなぁ。それはそうと、ぼくが高校ラグビー部のチームを指導していて大事にしているのは「傾聴」よりも「観察」かもしれません。

 

(たしかに、よしたに。)