たしかに、よしたに。

あんな人やこんな人について、考えたことを書きます。すこしでも「たしかに」となりますように。

「どうでもいいけどさ」と言う人について。

どうでもいいことを書こうと思う。

しかも、3つも書こうと思っている。

 

「どうでもいいわ!」とツっこまれても、

「だから言ったじゃないですか」と、

冷静沈着にお答えしたいと思う。

まるで弁護士・北村晴男のように。

 

 

「クマ太郎」というキャラクターの

 LINEスタンプをここ1年近く愛用している。

 小学生が2秒で壁に描いたような

 クマの子どものキャラクターで、

 なんともいえない、ゆる~いセリフや

 ゆる~いポーズがとにかく愛らしいのだ。

 

 そのクマ太郎、

 じわじわと人気を集めているのか、

 あるとき、「クマ太郎2」がでた。

 そして、その勢いはとまらず、

 なんといよいよ「クマ太郎3」まで。

 もちろん、クマ太郎が「推しメン」の

 ぼくとしては、握手券がなくても迷わず購入。

 平穏なクマ太郎ライフを過ごしていた。

 

 ところが、あるとき。

 なんと、クマ太郎の「母親」キャラが

 登場したとかしないとか、噂を聞いた。

 

 クマ太郎の母親キャラ‥‥

 

 気になりはじめると夜も眠れず、

 どれどれ、とスタンプショップで

 検索してみた。

 

 いた。

 

 「ママ太郎」

 

 ええぇぇぇぇえええ!

 

 「クマ」は?!

 

 クマ太郎というネーミングの文脈で考えれば、

 そこは「クマママ」か「クマ母」でしょ‥‥。

 「クマ」をそのまま「ママ」にすれば、

 たしかに声に出しやすいのはまちがいない。

 でも、そんなふうに「音」を優先させて、

 母も「太郎」にしてしまったそのセンスこそが、

 クマ太郎のいいところなのだろう。

 

 

・とある海外作家の書いた翻訳本を読もうと

 1ページ目をめくったら、

 まっしろのページに真ん中に一行だけ、

 こう書いてあった。

 

 「本書を二人の娘、アンとエレンに捧げる」

 

 このページは必要なのだろうか。

 「家族を大切にすると言っているのに、

 お父さんときたら、朝から晩まで

 本ばっかり書いているから

 せめて完成した本は大事な

 娘のために書いていたことにしよう」

 ‥‥と勘ぐってしまう私はイジワルか。

 アンとエレン、うれしいのかな。

 ふたりが何歳か知りませんが、

 400ページくらいある経営書です。

 ほんとうに捧げてるのかなぁ。

 

 

・これまでの人生、ずーーっと、

 「船越英一郎」を「三船敏郎」だと

 勘違いして生きていました。(ホント)

 

 七人の侍の人って、ずいぶんと長生きして

 いまでは刑事ドラマとか出ちゃうんだ。

 っへぇーーー、と思っていました。

 

 

以上です。

どうでもよかったですか。

そうですか。失礼いたしました。

 

 

(たしかに、よしたに。)

 

 

「どうぞごらんくださいませ〜」と言う人について。

アパレルショップの
店員さんの「接客」が苦手、
という人は多いように思う。
 
「どうぞごらんくださいませ〜」
(いや、言われなくても見るから)
 
「それ、ほかの色もあるんで」
(この色が気に入ってるんですけど)
  
「新品のもお出ししますよー」
(いざ買うときにお願いします)
 
「試着とかもできますんで」
(「とか」って他になにできるの?カスタム?)
 
「それ、きょう入荷したんですよ〜」
(だから‥‥なに?)
 
「それ、ほかの色もあるんで」
(それ、さっきちがう店員にも言われました)
 
‥‥挙げていけばキリがないけれど、
大きく2つのタイプがあって、
「中身がない」と「変な日本語」。
 
おなじ接客(サービス業)でも、
たとえば、マクドナルドのような
世界的な飲食チェーン店ならば、
たとえマニュアル接客だとしても、
中身はあるし、日本語もおかしくない。
 
しかし、セレクトショップやアパレルショップ
(とくに女性向け)のスタッフの接客だけは、
どうも「浮世離れ」しているように思う。
(「ショップ店員」って日本語がそもそも‥‥)
 
いろいろな事情があるのかもしれないけれど、
あんなヘンテコな日本語で接していて、
ちゃんと売れているのだろうか‥‥?
 
もちろん、ファッション業界で働く
すべてのスタッフの方がそうじゃない。
 
たとえば、『goro's』や『SUPREME』。
スタッフから話しかけてくることなんて、
まず、まったく、ない。
こちらが聞きたいことを質問すれば、
きちんと答えてくれる。なのでこちらは、
じっくりとモノをみて、選べる。
「愛想がないし威圧的」と感じる人も
いるかもしれない。でもでも、
お店のまえの通りをいつも掃除したり、
ご近所の人たちに丁寧に挨拶したり、
そういう姿をたまたま何度も見てきている。
意味もなく笑顔でこちらに近づいてきて、
初対面の自分に「わぁ、お似合いですネェ♡」と
言ってくる人より、よっぽど信頼が置ける。
 
たとえば、『HERMÈS』。
こちらのことを、「お客さま」として
接してこない(もちろんいい意味で)。
街のカフェで隣合った者同士が、
世間話でもするように自然体で会話をする。
そして、自分たちの企業哲学や、
製品への愛、こだわりや知識を、
どこまでも楽しそうに話してくれる。
こちらの表情やしぐさをつぶさにみて、
思い浮かんだ言葉を発しているように思う。
高校生だろうが中国人だろうが、
お金さえ持っていれば、だれに対しても
おなじ接客をしているほかの
「高級ブランド店」とはちょっとちがう。
 
そういった接客の質を上げるための
人材教育や社内研修にきちんとお金をかけているから、
サービスの質も上がっていて、その分だけ
製品の価格も高くなるのは当然なのですが。
 
そうです、レストランでミスをした店員さんを 
いつまでも説教をしている人や、
上司にはいつもペコペコしているのに
タクシーの運転手にエラそうな人っていますよね。
 
100円のお寿司屋さんと
25,000円のお寿司屋さんが、おなじ味で
おなじサービスなわけがないと思います。
 
文句があるならもっとお金を払って、
それ相応のサービスをしてくれる
レストランやリムジン・ハイヤーを利用すればいい。
 
高価なモノ(サービス)が、
かならずしも「いいモノ」ではないけれど、
いいモノは、高い。
 
これは、まちがいなく、そうだと思う。
 
 
(たしかに、よしたに。)
 
 
 

「あら、アナタも朝型なんですね」と言う人について。

とある出版社の社長の本を読んだ。

 

なんでも、彼は毎晩の会食があっても、

かならず2次会までは行かずに早く寝て、

早朝5時に起床しているのだという。

(「カラオケに行く奴は愚の骨頂」だそうです)

 

「早朝は静かで集中できるし、
 メールもこないし、電話も鳴らない。
 だから、みんなも早起きすべきである。」
 
そのような主張が書かれていた。
 
ん‥‥?いや、ちょっと待て。
 
途中まではわかる。
 
たしかに早朝は静かかもしれないが、
みんなにオススメしちゃいけない。
なぜなら、みんな朝型になったら、
メールも電話もきてしまって、
「静か」でなくなってしまうだろう。
 
ところで。
社会で生きていると、よく出くわすのが、
この「朝型自慢」をしてくるタイプの人。
口癖は、「あら、あなたも朝型ですか?
朝型ってホントいいですよね〜」である。
 
「早起きは三文の得」というくらいですし、
ぼく自身も早起きの清々しさは
よくわかっているつもりです。
 
でも、あえて「自慢」と書きたくなるような
「朝型の俺たちってすごいよな」オーラは、
なんなのだろうか、と考えてみた。
 
「みんな、ほんとうはできるはずのに、
 できていないことを俺はやってるぜ」
 
そんな心理があるのではないでしょうか。
 
たとえば、ダイエット(体重を落とす)なんて、
やりかた(HOW)は、とってもカンタンです。
極端な話ですが、運動なんてしなくたって、
30万円もどこかのジムに払わなくたって、
1日にサラダ1皿しか食べない生活をしていればいい。
揚げものとアイスクリームを食べないで
毎日腹筋を1000回すれば、たちまち
お腹はヘコんでいき、割れるにきまっている。
要するに、消費エネルギー量が、
摂取エネルギー量を上回れば、
やせていくに決まっているんです。
 
でも、やっぱり、美味しいお肉を食べたいし、
ときにはハーゲンダッツだって食べたい。
そして、人間は、基本的には、
なまけて生きていきたい。
 
つまり、頭で『HOW』をわかっていても、
それを実際に行動にする『DO』は別なんですね。
 
朝型自慢している人は、
ダイエットが成功した人と
おなじ心理にあるのもしれません。
 
さいきん、ありがたいことに、
仕事を通して「すごい」と言われる
いろいろな業界の人にお会いしていて、
みなさんの共通点は、これに尽きる。
 
つまり。
 
やってることはシンプルだけれど、
ただ、それをやりつづけている人が
頭ひとつ抜きん出ている。

これは、震災後からでしょうか。
「できることをしよう」という言葉を
あちこちで見聞きしていて、
この言葉の意味を理解できずにいました。
できることしかしなかったら、
人間は成長しないじゃないか、と。

でも、ここのところ気づいたのは、
「できるのにしていないこと」が
いかに多いか、ということ。

さぁ。まずは、朝型になって
「あら、あなたもですか?」と言うことから。

 
(たしかに、よしたに。)
 
 

タクシーへの不満が尽きない人について。

時計の針は22時をまわっていて、
最寄駅の「辻堂」を往復する
送迎バスはすでにおわっていた。
 
その日、「湘南T-SITE」に来ていたのだが、
駅までは歩いて30分くらいかかるというので、
タクシーを呼んでもらうことにした。
 
「さっきタクシー手配したときは、
 雨のせいで15分くらいかかっていました」
TSUTAYAのカウンターの店員さんが
そう教えてくれた。
 
ちなみに。店員さんはずっと屋内にいて
気づいてなかったのかもしれないが、
雨は、2時間くらいまえにやんでいた。
 
迎車をお願いしてから
5分ほど店内で時間をつぶして、
タクシーと待ち合わせている道路に出た。
そこはTSUTAYAの私有地のようなところで、
ひとけのない静かな道路だった。
 
と、そのとき。
ちょうど目の前で、
スーツを着た陽気なサラリーマン2名と、
女性1名がタクシーに乗り込み、
一台のタクシーが走り去った。
 
「まさか」
 
しかし、待てど暮らせど、
タクシーがやってこない。
 
「まさか」
 
湘南T-SITEのまえの道路には
タクシーは走っていないので、
呼ばなければ来ないはず。
 
あの3人組が自分よりも
先にタクシーを呼んでいた?
 
いや。カウンターの店員さんは、
「さっき呼んだときは雨が降っていた」
と話していた。つまり、この2時間で
もっとも最近タクシーを呼んだのは
ぼくである可能性が高い。
 
しばらくして、1台のタクシーがやって来た。
後部座席のドアが開き、
運転手さんが「アサダさん?」と聞いてきた。
 
「いえ、ちがうのですが、
 おそらく先ほどやってきたタクシーが、
 わたしが呼んだタクシーで、
 そちらにアサダさんが乗られていると思います」
 
「すいません!ちょっとお待ちください」
 
運転手さんは、無線でだれかと連絡をとりはじめた。
 
「おそらくその通りです。
 こちらにお乗りいただけますか」
 
駅に向かうタクシーの中で
あれこれ考えていた。
 
タクシーの迎車は、
「◯◯さんですか?」と名前を呼んで確かめずに、
「お名前はなんでしょうか?」
と聞くルールにしたほうがいいと思う。
(すでにそうならば徹底したほうがいいと思う)
 
急いで帰りたくて、なおかつ
すこし酔っぱらっている数人組ならば、
「◯◯さんですか?」と聞かれたら、
「そうです」と乗ってしまうのはしかたない。
 
こういった「タクシーへの不満」という話は、
多くの人が持っている「あるある」だと思う。
 
「道をぜんぜん知らない新人だった」
「ものすごくタバコ臭い」
「タバコ臭を消すためのファブリーズが臭い」
「真冬や真夏なのに[支払]でドアを開ける」
「眠りたいのにやけに話しかけてくる」
 
‥‥などなど。
 
なんでこんなに多くの人が
タクシーへの不満を持っているんだろうなぁ、
とウンウン考えていた。
 
ほとんどの運転手さんたちは、
心をつくしてくださっている。
それなのに、不満が多く出ている。
じゃあ、なんなんだ、と言えば、
タクシーの運転手たちが、
タクシーに乗ってきた経験が
あまりないんじゃないかしら、と思った。
 
つまり、自分がユーザーとして
タクシーをよく利用してきていれば、
いわゆる「消費者のキモチがわかる」ことで
もっといいサービスができるんじゃないか、と。
 
航空会社では、福利厚生の一環で、
(もちろん多くの条件はありますが)
社員は飛行機にタダで乗れる。
おなじように、福利厚生ではなくとも、
社員教育」という「投資」のくくりで、
タクシーの運転手さんたちも
「自社のタクシーはタダで乗り放題」
というふうにできないのかなぁ。
 
 
(たしかに。よしたに。)
 
 

「実食!」「‥‥参りました」と言う人について。

2週間まえくらいだったでしょうか。

食わず嫌い王決定戦」を

たまたまテレビで観ました。

 

ゲストは、水谷豊さんと水原希子さん。

(ずいぶんと「水」っぽいですね)

コーナーのあたまから観ていて、

1品ずつ「大好物」を食べていくわけですが、

 

‥‥わかるんです。

 

つまり、その、

「あ、この人、これ嫌いだな」

というのを食べた瞬間に感じました。

 

そして、やはり結果は、ぼくの予想どおり、

水谷豊さんは「ケジャン」が苦手で、

水原希子さんは「羊のチーズ」が苦手だった。

(水原さんの勝利でした)

 

たまたま今回だけかもしれません。

台本どおりかもしれません。

でも、ボーっと観ていましたが、

たしかな根拠のようなものがありました。

 

それは、

 

「美味しそうに食べていた」

 

ということ。

(俳優・女優さんだから? )

 

嫌いなものを食べるから、

それを隠すためにすこしだけ「嘘」をつく。

マイナスだったものを0にすればいいのに、

それ(苦手であること)を意識しすぎて、

0ではなくプラスになってしまう。

 

こういうこと、普段の生活でもある。 

話はすこしだけ変わりますが、

昔、どこかで聞いたこんな話。

 

「あなたの強みはなんですか?」と

ある人に尋ねたとき、

みずから答えたその「強み」は、

実はその人にとっての「弱み」である、と。

 

逆説的で「ホンマかいな」なのですが、

ぼくは、わりとその通りだと思っています。

 

たとえば、かのイチロー選手に

「野球におけるあなたの強みは?」と訊くと、

ぼくたちは「足が速い」とか

「肩が強い」とか「打撃がうまい」

という答えを期待するかもしれない。

 

でも、本人にとっては

そんなの「あたりまえ」すぎて、

もっと意識的に克服しようとしている、

「日々のコンディショニング能力」と

答えるかもしれないということ。

 

‥‥あれ。わかりづらいですか。笑

 

もっとストレートに表現すると、

あんまりお金を持っていない人ほど、

「お金があるように見せる」し、

あんまり若くて綺麗じゃない人ほど、

「ワタシって若くて綺麗でしょ」と

アピールする傾向がある、ということ。

 

今のじぶんに100%満足している人なんて、

そうそういないと思います。

だからこそ、実際のじぶんとはちがうけど、

「こう見られたい」という欲がわいてくる。

 

食わず嫌い王決定戦」を観ながら、

そんなことを考えていました。

 

それはさておき、このコーナー、

「王決定戦」というわりには、

いつ「王者」が決まるのでしょう?

 

笑点』の「座布団」とおんなじで、

とくに枚数(1位決定)には興味がない、

ということなのかなー。

 

(たしかに、よしたに。)

 

 

メッセージ系アプリが多すぎる人について。

iPhoneのアプリをながめてみる。

 

「LINE」

「メール」

Gmail

「メッセージ」

メッセンジャー

 

どんだけ「メッセージ系」あるのよ。

 

ほかにも、Twitterのメッセージや

会社のチャットメッセージなども、

ある人にはあるのだと思います。

 

ちょっと多すぎやしませんかね。

いろんな人と、いろんなところで

やりとりをしすぎじゃないですかね。

 

しかも、あるところでは

必ず一行目に名前を書いて、

さらに「様」までつけたり。

(「お世話になっております」も)

 

あるところでは、

スタンプが怒濤のように押されたり。

 

あるところでは、

ほとんど意味を成さない

「★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

こんな「署名」があったり。

 

どこかの経路を断ってしまうか、

もしくは、もうそろそろ、

一元化することはできませんかねぇ‥‥?

 

SNSFacebookTwitter)だけじゃなくて、

LINEやキャリアメールもすべて1つのアプリで。

これらのアプリをそこでログインして、

そこから閲覧、返信できるプラットフォーム。

システム的にはむずかしくないように

思えるのですが、どうなんでしょう。

 

「もうすでにあるんじゃない?」

という声が聞こえてくるのですが、

iOSにも対応していて、

SNSだけじゃなくて‥‥とかで調べると、

あんがい、ないんですよねぇ。

(存在していたらぜひ教えてください!)

 

キーボードのスタンプや絵文字は

どうやって統一するんだ、とか、

オトナの権利の問題とかあるのかもしれません。

でも、ニーズはあると思うんですよね。

 

どなたか、天才的なプログラマー

エンジニアの方がたまたまこれを見ていて、

「つくったよ〜」と連絡がくれば本望です。

 

(たしかに、よしたに。)

 

 

『セッション』する人について。

『セッション』という映画を観た。

 

ところで(いきなりですが)、

ぼくには、映画を観ているときならではの

「クセ」みたいなものがある。

 

「どうしてこの映画をつくったんだろう?」

 

この問いの答えを、常に考えてしまう。

 

本を読んだり、音楽を聴いたりするときは、

ほとんどそんなこと考えていない(と思う)。

なのに、映画を観ているときだけ、

「これをつくろうと思った動機はなんだろう」

「伝えたかったことはなんだろう」

と考えながらストーリーを追ってしまうのだ。

 

雑誌などの監督のインタビューで

「正解」を知ることができるかもしれない。

でも、あまりそれを知ろうと思わない。

ただ「自分の考え」を知りたいのだろう。

 

もうひとつ、クセがある。

 

映画を観ていると「ことば」が浮かんでくる。

 

その「ことば」は、

その映画を象徴するひとことだったり、

自分が受け取ったメッセージだったり。

これは、「考えている」というより、

自然と頭に「浮かんでくる」ことが多い。

 

たとえば、

ショーシャンクの空に』なら、

<ナレッジ・イズ・パワー>だった。

 

『ベイマックス』なら、

<学校に行くということ>だった。

 

さぁ、やっとこさ話をもどして、

『セッション』という映画について。

 

この作品を観ながら考えていた、

「どうしてこの映画をつくったんだろう」

という自問への答えは、

<どうしてもつくりたかったんだろうな>

という、みもふたもないものになった。

 

そして、作品からのメッセージ

(頭に浮かんできたキーワード)は、

<たのしめてるか?>だった。

 

ほかにも、

「才能を引き出すのは本人か?他人か?」とか、

「主体性を生むのは強制からなのか?」とか、

「成長を阻むものはいつもプライドだな」とか、

いろいろなことを考えていたけれど、

 

「ヘイ、みんな!寝食を忘れるくらい

 なにかに夢中になってるか?

 俺は映画づくりさ!」

 

そんなふうに、つくり手(監督)と

セッションしてる気分だった。

 

(たしかに、よしたに。)

 

 

自分の名前を連呼する人について。

さぁ、やってきた。

休日の朝から拡声器を使って

大声で自分の名前を連呼する人々が

あちこちで現れる季節。

そう、「選挙」である。

 

都内では選挙カーがワーワー騒ぎ立てていて、

たしかにすこしイラっとするときもあります。

しかし、彼ら(彼女ら)も、ある意味では、

「就活生」なんですよね。

リクルートスーツを着て、

スタバでヨーグルトフラペチーノを

飲みながら業界研究している

けなげな女子大生だとおもえば、

「ファイト!」と言いたくなります。

 

けれど、あまりにも、

自分の名前を連呼する立候補者の多いこと。

 

「どうせ立ち止まって

 じっくり聞いてもらえない」

と、タカをくくっているのかな。

 

「名前だけ覚えてもらおう」

と、一点突破の発想なのかな。

 

「私はきょうもココで活動しています」

と、それだけ伝わればいいのかな。

 

なんであれ、

企業への就職活動だとしたら、

そうはいかないだろう。

 

面接官「では、自己PRをお願いします」

志願者「よしたによしたに

よ・し・た・に・です!」

 

5秒で面接終了だろう。

 

選挙と就職活動はちがうものだけれど、

もっと「自分の考え」を話すことを

大切にすべきじゃないだろうか。

 

あと、選挙の時期にいつも思うのは、

あれだけ「お願いします!」と言っていた

候補者たちが、選挙がおわると

ピタっと姿を見せなくなるのは、

おこづかいがほしいときだけ、

お母さんの言うことを素直に聞いて、

お金をもらえたら遊びに行ってしまう

小学生のようだなぁ、ということ。

 

たとえ落選しても、当選しても、

「御礼」の街頭演説ができるような

仕組みにしたらどうでしょうか。

 

すくなくとも、ぼくは、

そういう候補者に投票したい。

 

(たしかに、よしたに。)

「なかなかボタンを押せなくて」と言う人について。

ぼくのことである。

 

このブログに投稿した文章は、

26日まえのものが最後となっている。

 

途中まで書けている記事、

ほぼ完成している記事のドラフトは

evernoteに6つほどある。

では、どうして「投稿ボタン」を

押すまでに至らないのか。

 

それは、「ビビっている」から。

「ライター」とつく仕事をしているとか、

(誤字脱字はないか‥‥?ヘタじゃないか‥‥?)

もしもこれをクライアントが読んだらとか

(だれも傷つけていないだろうか‥‥?)。

 

書いているときはアクセルを踏むけれど、

いざ「投稿」というところまでくると、

いろいろ考えてブレーキをかけてしまう。

 

なかでも、4/1に書いていた

「新社会人のみなさんへ」

という記事は来年までお蔵入りだろう。

 

 ‥‥と、テキトーに書いているうちに、

これで1記事できて、安心しています。

 

なにごとも、「さぁやるぞ」と

机に向かって気合いを入れようとするより、

「いつのまにか、はじまっていた」くらいが

ちょうどいいものですね。

 

こんな感じで、内容はともかく、

じぶんの頭の整理のためにも、

なるべくマメに書いていこうと思います。

実は、なにも書いていなくても、

1日に60人くらい誰かがここを

訪れてくださっていますので‥‥。

(誰なのかわかりませんが感謝です)

 

さいごに、自分の備忘録のために、

ここ1ヶ月ほどで読んだ本を記しておきます。

*読んだ時系列順にしました。

 こうして見ると、自分がそのとき、

 何に興味を持っていたのかわかりますね。

 

『How  Google Works』エリック・シュミット

非営利組織の経営』P・F・ドラッカー

『GO WILD』ジョン・J・レイティ

『街場の戦争論』内田樹

『作家の愛したホテル』伊集院静

『インターネット的』糸井重里

『知ろうとすること。』糸井重里・早野龍五

『思考のレッスン』丸谷才一

『投資家がお金よりも大切にしていること』藤野英人

『低予算でもなぜ強い?湘南ベルマーレと日本サッカーの現在地』戸塚啓

『コンサル100年史』並木裕太

『新しいお金術』松浦弥太郎

『近くて遠いこの身体』平尾剛

 

ほかにも、手元になくて忘れたもの、

本屋でさらっと読んだものがありますが、

よく覚えているのはこのあたりです。

雑誌は、『BLUTUS』などのカルチャー誌から、

『暮らしの手帖』まで、幅広く読んでいます。

 

とくに人にオススメしたいのは、

・『思考のレッスン』

・『投資家がお金よりも大切にしていること』

でしょうか。

 

・『低予算でもなぜ強い?湘南ベルマーレと日本サッカーの現在地』

・『コンサル100年史』

 

この2冊については、

冒頭の「投稿していない記事」の1つに

読んだあとの感想のようなものを書いています。

いつか投稿ボタンを押したいと思います。

 

おわかりのように、今回は、

とくに「たしかに!」ポイントが

ありませんでした。

 

(たしかに、よしたに。)

希望を胸に生きる人について。

先週、『ショーシャンクの空に』を観た。
 
この映画から受け取ったものは、
3つの言葉になって、いまも胸のあたりに
ずしーんと重く置いてある。
 
「ナレッジイズパワー」
 
なぜか「知識は力なり」じゃなかった。
カタカナの姿で降ってきた。
 
どうして人は、勉強をするのか?
それは、友人が困っているときに
救ってあげるためと、どこかで読んだ。
 
受験勉強は、競争だ。
「まわりを蹴落とした人」が勝つ。
けれど、実際の社会では
そんな人の周りには誰もいなくなる。
天才をのぞいて、ほとんどの仕事は、
だれかと協力し合いながら、
だれかの役に立つためにある。
 
『強い者は生き残れない』という本に、
生物学では「強い=生き残る」と考えたとき、
競争をするより、協業するほうが
生き残ることができると書いてあった。
(ものすごくざっくりですけど)
 
主人公・アンディーは、
まさに「ナレッジ」を「パワー」にした。
決して「おびやかすような権力」ではなく。
そして、彼は周りのために尽くし、
刑務所内のヒーローになり、生き残った。
 
2つめ。
 
「人生には芸術が必要だ」
 
刑務所のなかは、衣食住は保証されている。
けれど、やっぱりそれだけじゃ
人間の「心」までは満たされなかった。
 
アンディーがフィガロの結婚』のレコードを
刑務所内に大音量で勝手に流すシーン。
その美しい歌声を聴き入るように
いっせいに静まり返る刑務所内。
もちろん所長につかまってしまうが、
懲罰房から出てきたアンディーは言う。
 
「心のなかでモーツァルトを聴いていた。
 音楽は決して人から奪えない」
 
人生には、美しい音楽や絵画が必要だ。
あらためて、そう思った。
そうだ、上野 行こう。
 
そして、3つめ。
 
「希望を捨てちゃいけない」
 
映画のなかで
「必死に生きるか。必死に死ぬか。」
というセリフが2回でてくる。
 
ちょうどこの映画を見終わったあとに、
とある後輩からメールがきていた。
 
彼は、半年ほどまえから、
ぼくにある相談をしてきていた。
民間企業に就職して数年、
やっぱり夢を追うために脱サラをして
ラグビーのプロ選手になりたいんです、と。
 
そのままそこで働いていたら、
ある程度のゆとりある生活を送りながら、
生きていくことはできただろう。
けれど、彼は真剣に話してくれた。
 
「笑わないでください。
 W杯に出たいっていう夢があるんです。
 小さくてもできることを証明したくて」
 
移籍して受け入れてくれるクラブを探して、
両親を説得して(これがけっこう難航した)、
やっとのことで正式にプロ転向が決まった。
その報告のメールが、映画を見終えたとき、
ちょうどやってきたのだった。
 
そこには、こう書いてあった。
 
「夢と希望でいっぱいの24歳は、
 これからの自分を想像すると
 楽しみで仕方がありません」
 
彼は、「必死に生きる」ほうを選んだ。
いずれにせよ、生きることは、必死なのだ。
ただ、胸のなかに希望があるかどうか。
 
うまくいくとは限らない。
どん底のときだってあるだろう。
けれど、あとで振り返ったときに、
「あれがあったからこそ」と
思えるように生きればいいだけだ。
 
アンディーと後輩へ。
おれも、希望を胸に生きようと思えたよ。
ありがとう。
 
「希望」
 
この言葉の美しさを、
あらためて感じさせてくれる映画だった。
 
4年前の3.11のあとは、たくさんの人たちが、
じぶんに嘘をつかず、希望を胸に、
「必死に生きる」ことを心に決めていたなぁ。
 
 
(たしかに、よしたに。)