たしかに、よしたに。

あんな人やこんな人について、考えたことを書きます。すこしでも「たしかに」となりますように。

タクシーへの不満が尽きない人について。

時計の針は22時をまわっていて、
最寄駅の「辻堂」を往復する
送迎バスはすでにおわっていた。
 
その日、「湘南T-SITE」に来ていたのだが、
駅までは歩いて30分くらいかかるというので、
タクシーを呼んでもらうことにした。
 
「さっきタクシー手配したときは、
 雨のせいで15分くらいかかっていました」
TSUTAYAのカウンターの店員さんが
そう教えてくれた。
 
ちなみに。店員さんはずっと屋内にいて
気づいてなかったのかもしれないが、
雨は、2時間くらいまえにやんでいた。
 
迎車をお願いしてから
5分ほど店内で時間をつぶして、
タクシーと待ち合わせている道路に出た。
そこはTSUTAYAの私有地のようなところで、
ひとけのない静かな道路だった。
 
と、そのとき。
ちょうど目の前で、
スーツを着た陽気なサラリーマン2名と、
女性1名がタクシーに乗り込み、
一台のタクシーが走り去った。
 
「まさか」
 
しかし、待てど暮らせど、
タクシーがやってこない。
 
「まさか」
 
湘南T-SITEのまえの道路には
タクシーは走っていないので、
呼ばなければ来ないはず。
 
あの3人組が自分よりも
先にタクシーを呼んでいた?
 
いや。カウンターの店員さんは、
「さっき呼んだときは雨が降っていた」
と話していた。つまり、この2時間で
もっとも最近タクシーを呼んだのは
ぼくである可能性が高い。
 
しばらくして、1台のタクシーがやって来た。
後部座席のドアが開き、
運転手さんが「アサダさん?」と聞いてきた。
 
「いえ、ちがうのですが、
 おそらく先ほどやってきたタクシーが、
 わたしが呼んだタクシーで、
 そちらにアサダさんが乗られていると思います」
 
「すいません!ちょっとお待ちください」
 
運転手さんは、無線でだれかと連絡をとりはじめた。
 
「おそらくその通りです。
 こちらにお乗りいただけますか」
 
駅に向かうタクシーの中で
あれこれ考えていた。
 
タクシーの迎車は、
「◯◯さんですか?」と名前を呼んで確かめずに、
「お名前はなんでしょうか?」
と聞くルールにしたほうがいいと思う。
(すでにそうならば徹底したほうがいいと思う)
 
急いで帰りたくて、なおかつ
すこし酔っぱらっている数人組ならば、
「◯◯さんですか?」と聞かれたら、
「そうです」と乗ってしまうのはしかたない。
 
こういった「タクシーへの不満」という話は、
多くの人が持っている「あるある」だと思う。
 
「道をぜんぜん知らない新人だった」
「ものすごくタバコ臭い」
「タバコ臭を消すためのファブリーズが臭い」
「真冬や真夏なのに[支払]でドアを開ける」
「眠りたいのにやけに話しかけてくる」
 
‥‥などなど。
 
なんでこんなに多くの人が
タクシーへの不満を持っているんだろうなぁ、
とウンウン考えていた。
 
ほとんどの運転手さんたちは、
心をつくしてくださっている。
それなのに、不満が多く出ている。
じゃあ、なんなんだ、と言えば、
タクシーの運転手たちが、
タクシーに乗ってきた経験が
あまりないんじゃないかしら、と思った。
 
つまり、自分がユーザーとして
タクシーをよく利用してきていれば、
いわゆる「消費者のキモチがわかる」ことで
もっといいサービスができるんじゃないか、と。
 
航空会社では、福利厚生の一環で、
(もちろん多くの条件はありますが)
社員は飛行機にタダで乗れる。
おなじように、福利厚生ではなくとも、
社員教育」という「投資」のくくりで、
タクシーの運転手さんたちも
「自社のタクシーはタダで乗り放題」
というふうにできないのかなぁ。
 
 
(たしかに。よしたに。)
 
 

「実食!」「‥‥参りました」と言う人について。

2週間まえくらいだったでしょうか。

食わず嫌い王決定戦」を

たまたまテレビで観ました。

 

ゲストは、水谷豊さんと水原希子さん。

(ずいぶんと「水」っぽいですね)

コーナーのあたまから観ていて、

1品ずつ「大好物」を食べていくわけですが、

 

‥‥わかるんです。

 

つまり、その、

「あ、この人、これ嫌いだな」

というのを食べた瞬間に感じました。

 

そして、やはり結果は、ぼくの予想どおり、

水谷豊さんは「ケジャン」が苦手で、

水原希子さんは「羊のチーズ」が苦手だった。

(水原さんの勝利でした)

 

たまたま今回だけかもしれません。

台本どおりかもしれません。

でも、ボーっと観ていましたが、

たしかな根拠のようなものがありました。

 

それは、

 

「美味しそうに食べていた」

 

ということ。

(俳優・女優さんだから? )

 

嫌いなものを食べるから、

それを隠すためにすこしだけ「嘘」をつく。

マイナスだったものを0にすればいいのに、

それ(苦手であること)を意識しすぎて、

0ではなくプラスになってしまう。

 

こういうこと、普段の生活でもある。 

話はすこしだけ変わりますが、

昔、どこかで聞いたこんな話。

 

「あなたの強みはなんですか?」と

ある人に尋ねたとき、

みずから答えたその「強み」は、

実はその人にとっての「弱み」である、と。

 

逆説的で「ホンマかいな」なのですが、

ぼくは、わりとその通りだと思っています。

 

たとえば、かのイチロー選手に

「野球におけるあなたの強みは?」と訊くと、

ぼくたちは「足が速い」とか

「肩が強い」とか「打撃がうまい」

という答えを期待するかもしれない。

 

でも、本人にとっては

そんなの「あたりまえ」すぎて、

もっと意識的に克服しようとしている、

「日々のコンディショニング能力」と

答えるかもしれないということ。

 

‥‥あれ。わかりづらいですか。笑

 

もっとストレートに表現すると、

あんまりお金を持っていない人ほど、

「お金があるように見せる」し、

あんまり若くて綺麗じゃない人ほど、

「ワタシって若くて綺麗でしょ」と

アピールする傾向がある、ということ。

 

今のじぶんに100%満足している人なんて、

そうそういないと思います。

だからこそ、実際のじぶんとはちがうけど、

「こう見られたい」という欲がわいてくる。

 

食わず嫌い王決定戦」を観ながら、

そんなことを考えていました。

 

それはさておき、このコーナー、

「王決定戦」というわりには、

いつ「王者」が決まるのでしょう?

 

笑点』の「座布団」とおんなじで、

とくに枚数(1位決定)には興味がない、

ということなのかなー。

 

(たしかに、よしたに。)

 

 

メッセージ系アプリが多すぎる人について。

iPhoneのアプリをながめてみる。

 

「LINE」

「メール」

Gmail

「メッセージ」

メッセンジャー

 

どんだけ「メッセージ系」あるのよ。

 

ほかにも、Twitterのメッセージや

会社のチャットメッセージなども、

ある人にはあるのだと思います。

 

ちょっと多すぎやしませんかね。

いろんな人と、いろんなところで

やりとりをしすぎじゃないですかね。

 

しかも、あるところでは

必ず一行目に名前を書いて、

さらに「様」までつけたり。

(「お世話になっております」も)

 

あるところでは、

スタンプが怒濤のように押されたり。

 

あるところでは、

ほとんど意味を成さない

「★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

こんな「署名」があったり。

 

どこかの経路を断ってしまうか、

もしくは、もうそろそろ、

一元化することはできませんかねぇ‥‥?

 

SNSFacebookTwitter)だけじゃなくて、

LINEやキャリアメールもすべて1つのアプリで。

これらのアプリをそこでログインして、

そこから閲覧、返信できるプラットフォーム。

システム的にはむずかしくないように

思えるのですが、どうなんでしょう。

 

「もうすでにあるんじゃない?」

という声が聞こえてくるのですが、

iOSにも対応していて、

SNSだけじゃなくて‥‥とかで調べると、

あんがい、ないんですよねぇ。

(存在していたらぜひ教えてください!)

 

キーボードのスタンプや絵文字は

どうやって統一するんだ、とか、

オトナの権利の問題とかあるのかもしれません。

でも、ニーズはあると思うんですよね。

 

どなたか、天才的なプログラマー

エンジニアの方がたまたまこれを見ていて、

「つくったよ〜」と連絡がくれば本望です。

 

(たしかに、よしたに。)

 

 

『セッション』する人について。

『セッション』という映画を観た。

 

ところで(いきなりですが)、

ぼくには、映画を観ているときならではの

「クセ」みたいなものがある。

 

「どうしてこの映画をつくったんだろう?」

 

この問いの答えを、常に考えてしまう。

 

本を読んだり、音楽を聴いたりするときは、

ほとんどそんなこと考えていない(と思う)。

なのに、映画を観ているときだけ、

「これをつくろうと思った動機はなんだろう」

「伝えたかったことはなんだろう」

と考えながらストーリーを追ってしまうのだ。

 

雑誌などの監督のインタビューで

「正解」を知ることができるかもしれない。

でも、あまりそれを知ろうと思わない。

ただ「自分の考え」を知りたいのだろう。

 

もうひとつ、クセがある。

 

映画を観ていると「ことば」が浮かんでくる。

 

その「ことば」は、

その映画を象徴するひとことだったり、

自分が受け取ったメッセージだったり。

これは、「考えている」というより、

自然と頭に「浮かんでくる」ことが多い。

 

たとえば、

ショーシャンクの空に』なら、

<ナレッジ・イズ・パワー>だった。

 

『ベイマックス』なら、

<学校に行くということ>だった。

 

さぁ、やっとこさ話をもどして、

『セッション』という映画について。

 

この作品を観ながら考えていた、

「どうしてこの映画をつくったんだろう」

という自問への答えは、

<どうしてもつくりたかったんだろうな>

という、みもふたもないものになった。

 

そして、作品からのメッセージ

(頭に浮かんできたキーワード)は、

<たのしめてるか?>だった。

 

ほかにも、

「才能を引き出すのは本人か?他人か?」とか、

「主体性を生むのは強制からなのか?」とか、

「成長を阻むものはいつもプライドだな」とか、

いろいろなことを考えていたけれど、

 

「ヘイ、みんな!寝食を忘れるくらい

 なにかに夢中になってるか?

 俺は映画づくりさ!」

 

そんなふうに、つくり手(監督)と

セッションしてる気分だった。

 

(たしかに、よしたに。)

 

 

自分の名前を連呼する人について。

さぁ、やってきた。

休日の朝から拡声器を使って

大声で自分の名前を連呼する人々が

あちこちで現れる季節。

そう、「選挙」である。

 

都内では選挙カーがワーワー騒ぎ立てていて、

たしかにすこしイラっとするときもあります。

しかし、彼ら(彼女ら)も、ある意味では、

「就活生」なんですよね。

リクルートスーツを着て、

スタバでヨーグルトフラペチーノを

飲みながら業界研究している

けなげな女子大生だとおもえば、

「ファイト!」と言いたくなります。

 

けれど、あまりにも、

自分の名前を連呼する立候補者の多いこと。

 

「どうせ立ち止まって

 じっくり聞いてもらえない」

と、タカをくくっているのかな。

 

「名前だけ覚えてもらおう」

と、一点突破の発想なのかな。

 

「私はきょうもココで活動しています」

と、それだけ伝わればいいのかな。

 

なんであれ、

企業への就職活動だとしたら、

そうはいかないだろう。

 

面接官「では、自己PRをお願いします」

志願者「よしたによしたに

よ・し・た・に・です!」

 

5秒で面接終了だろう。

 

選挙と就職活動はちがうものだけれど、

もっと「自分の考え」を話すことを

大切にすべきじゃないだろうか。

 

あと、選挙の時期にいつも思うのは、

あれだけ「お願いします!」と言っていた

候補者たちが、選挙がおわると

ピタっと姿を見せなくなるのは、

おこづかいがほしいときだけ、

お母さんの言うことを素直に聞いて、

お金をもらえたら遊びに行ってしまう

小学生のようだなぁ、ということ。

 

たとえ落選しても、当選しても、

「御礼」の街頭演説ができるような

仕組みにしたらどうでしょうか。

 

すくなくとも、ぼくは、

そういう候補者に投票したい。

 

(たしかに、よしたに。)

「なかなかボタンを押せなくて」と言う人について。

ぼくのことである。

 

このブログに投稿した文章は、

26日まえのものが最後となっている。

 

途中まで書けている記事、

ほぼ完成している記事のドラフトは

evernoteに6つほどある。

では、どうして「投稿ボタン」を

押すまでに至らないのか。

 

それは、「ビビっている」から。

「ライター」とつく仕事をしているとか、

(誤字脱字はないか‥‥?ヘタじゃないか‥‥?)

もしもこれをクライアントが読んだらとか

(だれも傷つけていないだろうか‥‥?)。

 

書いているときはアクセルを踏むけれど、

いざ「投稿」というところまでくると、

いろいろ考えてブレーキをかけてしまう。

 

なかでも、4/1に書いていた

「新社会人のみなさんへ」

という記事は来年までお蔵入りだろう。

 

 ‥‥と、テキトーに書いているうちに、

これで1記事できて、安心しています。

 

なにごとも、「さぁやるぞ」と

机に向かって気合いを入れようとするより、

「いつのまにか、はじまっていた」くらいが

ちょうどいいものですね。

 

こんな感じで、内容はともかく、

じぶんの頭の整理のためにも、

なるべくマメに書いていこうと思います。

実は、なにも書いていなくても、

1日に60人くらい誰かがここを

訪れてくださっていますので‥‥。

(誰なのかわかりませんが感謝です)

 

さいごに、自分の備忘録のために、

ここ1ヶ月ほどで読んだ本を記しておきます。

*読んだ時系列順にしました。

 こうして見ると、自分がそのとき、

 何に興味を持っていたのかわかりますね。

 

『How  Google Works』エリック・シュミット

非営利組織の経営』P・F・ドラッカー

『GO WILD』ジョン・J・レイティ

『街場の戦争論』内田樹

『作家の愛したホテル』伊集院静

『インターネット的』糸井重里

『知ろうとすること。』糸井重里・早野龍五

『思考のレッスン』丸谷才一

『投資家がお金よりも大切にしていること』藤野英人

『低予算でもなぜ強い?湘南ベルマーレと日本サッカーの現在地』戸塚啓

『コンサル100年史』並木裕太

『新しいお金術』松浦弥太郎

『近くて遠いこの身体』平尾剛

 

ほかにも、手元になくて忘れたもの、

本屋でさらっと読んだものがありますが、

よく覚えているのはこのあたりです。

雑誌は、『BLUTUS』などのカルチャー誌から、

『暮らしの手帖』まで、幅広く読んでいます。

 

とくに人にオススメしたいのは、

・『思考のレッスン』

・『投資家がお金よりも大切にしていること』

でしょうか。

 

・『低予算でもなぜ強い?湘南ベルマーレと日本サッカーの現在地』

・『コンサル100年史』

 

この2冊については、

冒頭の「投稿していない記事」の1つに

読んだあとの感想のようなものを書いています。

いつか投稿ボタンを押したいと思います。

 

おわかりのように、今回は、

とくに「たしかに!」ポイントが

ありませんでした。

 

(たしかに、よしたに。)

希望を胸に生きる人について。

先週、『ショーシャンクの空に』を観た。
 
この映画から受け取ったものは、
3つの言葉になって、いまも胸のあたりに
ずしーんと重く置いてある。
 
「ナレッジイズパワー」
 
なぜか「知識は力なり」じゃなかった。
カタカナの姿で降ってきた。
 
どうして人は、勉強をするのか?
それは、友人が困っているときに
救ってあげるためと、どこかで読んだ。
 
受験勉強は、競争だ。
「まわりを蹴落とした人」が勝つ。
けれど、実際の社会では
そんな人の周りには誰もいなくなる。
天才をのぞいて、ほとんどの仕事は、
だれかと協力し合いながら、
だれかの役に立つためにある。
 
『強い者は生き残れない』という本に、
生物学では「強い=生き残る」と考えたとき、
競争をするより、協業するほうが
生き残ることができると書いてあった。
(ものすごくざっくりですけど)
 
主人公・アンディーは、
まさに「ナレッジ」を「パワー」にした。
決して「おびやかすような権力」ではなく。
そして、彼は周りのために尽くし、
刑務所内のヒーローになり、生き残った。
 
2つめ。
 
「人生には芸術が必要だ」
 
刑務所のなかは、衣食住は保証されている。
けれど、やっぱりそれだけじゃ
人間の「心」までは満たされなかった。
 
アンディーがフィガロの結婚』のレコードを
刑務所内に大音量で勝手に流すシーン。
その美しい歌声を聴き入るように
いっせいに静まり返る刑務所内。
もちろん所長につかまってしまうが、
懲罰房から出てきたアンディーは言う。
 
「心のなかでモーツァルトを聴いていた。
 音楽は決して人から奪えない」
 
人生には、美しい音楽や絵画が必要だ。
あらためて、そう思った。
そうだ、上野 行こう。
 
そして、3つめ。
 
「希望を捨てちゃいけない」
 
映画のなかで
「必死に生きるか。必死に死ぬか。」
というセリフが2回でてくる。
 
ちょうどこの映画を見終わったあとに、
とある後輩からメールがきていた。
 
彼は、半年ほどまえから、
ぼくにある相談をしてきていた。
民間企業に就職して数年、
やっぱり夢を追うために脱サラをして
ラグビーのプロ選手になりたいんです、と。
 
そのままそこで働いていたら、
ある程度のゆとりある生活を送りながら、
生きていくことはできただろう。
けれど、彼は真剣に話してくれた。
 
「笑わないでください。
 W杯に出たいっていう夢があるんです。
 小さくてもできることを証明したくて」
 
移籍して受け入れてくれるクラブを探して、
両親を説得して(これがけっこう難航した)、
やっとのことで正式にプロ転向が決まった。
その報告のメールが、映画を見終えたとき、
ちょうどやってきたのだった。
 
そこには、こう書いてあった。
 
「夢と希望でいっぱいの24歳は、
 これからの自分を想像すると
 楽しみで仕方がありません」
 
彼は、「必死に生きる」ほうを選んだ。
いずれにせよ、生きることは、必死なのだ。
ただ、胸のなかに希望があるかどうか。
 
うまくいくとは限らない。
どん底のときだってあるだろう。
けれど、あとで振り返ったときに、
「あれがあったからこそ」と
思えるように生きればいいだけだ。
 
アンディーと後輩へ。
おれも、希望を胸に生きようと思えたよ。
ありがとう。
 
「希望」
 
この言葉の美しさを、
あらためて感じさせてくれる映画だった。
 
4年前の3.11のあとは、たくさんの人たちが、
じぶんに嘘をつかず、希望を胸に、
「必死に生きる」ことを心に決めていたなぁ。
 
 
(たしかに、よしたに。)
 
 

リクルートスーツを着る人について。

今年もこの季節がやってきた。
 
都内のあちこちのカフェが、
髪をうしろにひとつに結び、
黒のスーツを着た女の子たちであふれる。
 
これ、不思議なのが、
男子はあんまりいないんだよなぁ。
この国では女性しか就職活動していないのか?
と、思ってしまうくらい。
 
いや、そんなことを言うと、
「ここにいますけど」って
男子学生が出てくると思うんです。
 
で、すこし考えてみると、
「女の子は目立つ」んじゃないかと。
それはきっと、「スーツ」の問題だと思う。
 
男子学生は就職活動をするときに、
一般的にはスーツを着るけれど、
(まだ社会人でもないのに不思議だけど)
社会に出てからも、同じようなスーツを着る。
 
でも、これが女の子となると、
働きだしたら、ほとんどの人が
あの「リクルートスーツ」という
まっ黒の服を着なくなる。
 
日本では80年代くらいから、
男女が平等に働ける社会をつくりましょうや
という法律ができたものの、なんだかんだ、
女性には公の場で着る「制服(正装)」がない。
 
それは、結婚式などのときにもよく思う。
男性は、とりあえずスーツを着てくればいい。
かたや、女性を見てみると、
適切な言い方がどうかわからないのだけれど、
「銀座のお水の商売」みたいになっている。
髪型にしてみても、
「どうしてそんなに空へ舞い上がったのか」
っていうくらいリーゼントみたいな人もいる。
 
Googleで「男性 正装」と画像検索すると、
タキシードか袴の男性が、ほぼ、現れる。
でも「女性 正装」で同じことをすると、
ワンピース、ブラウス、着物、
どこかの民族衣装みたいなものから、
肌がスケスケのお姉さんまで出てくる。
 
就職活動をしているときしか着ない、
制服でもない、仕事服でもない、
正真正銘の「リクルートスーツ」。
だから女の子がそれを着て街にいると、
「あ、就職活動してる」と目立っちゃう。
 
‥‥と思っているのだけれど、
スーツを着た若めの男の子はあんまり
スターバックスにはいないよなぁ。
煙草の吸えるドトールとかにいるのかな。
 
(たしかに、よしたに。)
 
 

スターバックスにいる人について。

コストパフォーマンスが高い。
 
そう書くと、「えっ」と、
驚かれる人もいるかもしれない。
 
1杯のホットコーヒーが
トール(350ml)で345円。
 
おかわりをすると
(その日限りで店舗は問わない)
1杯が、108円になる。
 
つまり、2杯(750ml)で、
453円となる。
 
ちなみにドトール
ホットコーヒーLサイズは、
270mlで320円。
 
スターバックスのトールサイズ2杯分と
おなじ量に換算すると、530円。
80円ちかく安いことがわかる。
 
それでいて、
インターネットがつながっている。
もちろん無料であり、電源だって
ほとんどの店舗に設置されている。
 
スターバックスにいる顧客は、
そのほとんどが「1人」だと思う。
のこりは、恋人同士、保険の営業、
英語個人レッスン中の人たち、
この時期だとOB訪問などの、
「2人」であることが多い。
 
4人くらいの人数で
都内の店舗に入ろうと思うと、
同時に4席も空く確率は低い。
 
では、その「1人」は何をしているのか。
 
 
一緒に食事をしている友人が、
トイレに席を立った瞬間に
スマートフォンを取り出す。
そんな光景をよく見かけるくらい、
「1人になったらスマートフォン」の時代。
 
そこからニュースを入手して、
友達との連絡や、その近況をながめたり、
音楽を聞きながら、ゲームをしたり。
 
もちろん勉強をしている人、
仕事をしている人もたくさんいる。
しかし、いずれにせよ、「1人客」は
「電源」と「電波」を要することが多い。
 
それらがすべてそろっていて、
なおかつ、コーヒーを2杯のんでも、
453円(友人とシェアすれば1人227円)。
 
「なにをいまさら」と思われるかもしれない。
でも、スターバックスは、やっぱりいい。
 
ちなみに、ぼくがスターバックス
コーヒーを頼むときには、
ちょっとした2つのこだわりがある。
 
夏場をのぞいて、
ドリップコーヒーのホットは、
だいたい2種類の豆が用意されており、
オーダーをすると店員さんから
「どちらにしますか?」と聞かれる。
ぼくは、かならず、
「落としてから時間が
 経っていないほうでお願いします」
と答える。
 
つまり、コーヒーがドリップされてから
時間があまり経っていない「新鮮」なほう。
 
「スタバのコーヒーは美味しくない」
そう言う人のほとんどは、
落としてから時間が経ってしまった
酸味の強くなったコーヒーを飲んでいると思う。
 
淹れたて(落としたて)は、
香りが、ぜんぜんちがう。
そして、酸味がほとんどない。
さらに、温かさがちがう。
 
スターバックスは1時間経過すると
コーヒーをすべて廃棄する。
逆に言えば、落としてから55分経った
コーヒーを飲むことだってある。
ちなみに、タリーズコーヒー
30分で廃棄と決められているので、
スターバックスよりは新鮮な
コーヒーに出会えることが多い。
 
もうひとつのこだわりは、
「マグカップ」で頼むということ。
 
紙カップはそのまま
テイクアウトできるメリットがあるものの、
どうしても「香りまで楽しめない」のだ。
 
コーヒーの楽しみは、香りにもある。
マグカップで飲むときは、
コーヒーと鼻の距離が近くなり、
きちんと香りをかぐことができる。
 
ついでながら、夏場になって
アイスコーヒーを頼むときには、
「スリーブ」を付けてもらう。
あの、ダンボールのような素材の、
手を熱さから守るアレである。
 
夏のドリンクは汗をかく(結露)。
しかし、あのスリーブがすべて吸収し、
テーブルがまったく汚れないのだ。
 
「冷たいドリンクですと
 すべって取れやすいのでご注意ください」
と店員さんに言われてしまうけれど、
今年の夏、よろしければお試しあれ。
 
 
(たしかに、よしたに。)
 
 

批判をする人について。

ある人と話をしていたら、
こんなエピソードを話してくれた。
 
その人が高校生だったときのこと。
授業中に居眠りをしていたら、
学校から親が呼び出されてしまった。
 
ちなみに、ぼくが通っていた高校では、
授業中に生徒の9割が机につっぷして
寝ていることは日常茶飯事。
(それを『視聴率が低い』と呼んでいた)
 
週刊少年ジャンプ』を3週分読破する者、
カップ麺の湯気が頭上に立ちこめている者、
‥‥ここでは書けないものもふくめて、
実に、授業以外のことにみんな熱心だった。
 
我が母校では、居眠りくらいで(失礼)
親がいちいち呼び出されていたら、
まいにちが授業参観の様相を呈してしまう。
それほど、彼女の通っていた高校は
立派な進学校なのだろう。
 
「それはたいへんだったね」と
あいづちを打ちながら、ぼくは考えた。
 
「もしもじぶんが親だったら」
 
じぶんの子どもが居眠りをしていて、
学校から呼び出されてしまったとき。
ぼくなら、どんな振る舞いをするだろう。
 
先生「娘さんが授業中に寝ていましたけど」
 
さぁ、こちらの答弁がはじまる。
 
「うちの娘は西島秀俊のファンです。
 仮に、西島秀俊が先生だったら、
 2徹の麻雀明けでも目を光らせると思います。
 つまり、ワクワクしているからです。
 生徒が居眠りしてしまうほど、
 驚くほど退屈な授業をしている先生を、
 わたしが自宅に呼び出したいくらいです。
 娘が給料をもらって働いていて、
 居眠りしているならお詫びします。
 ですが、こちらは授業料を払って、
 その対価を享受する立場にあります。
 そこのところ、いかがでしょうか
 
 
誕生の瞬間である。
 
 
いえ、ちゃんとお断りしておきたいのは、
実際にこのシチュエーションだったら、
「どうして眠かったの?部活の朝練?」
「あなたの目標はなんだっけ?」
「つらいけど、授業をちゃんと聞かないとね」
と娘と話し合っている。
 
なにを言いたいのかというと、
『しようとおもえば、なんでも、
 クレーム(人のせい)にできる』
ということだ。
 
ちなみに、ぼくは、お金を払う側も、
もらう側もおなじ立場だと思っている。
「お客様は神様」って、ちがうだろう、と。
 
サービスを提供する人がいるから、
それを受けとることができる。
コンビニの店員が深夜にシフトを入れて
働いてくれていなければ、
缶コーヒーひとつだって買えない。
だから、コンビニの店員にも、
「ありがとうございます」とかならず言う。
 
「新人なもんで‥‥」と言う
タクシーの運転手に横柄な態度をとる人も、
「こっちはカネを払ってるんだぞ」
という気持ちがどこかにあるのかもしれない。
そこをたまたま通ってくれたのだ。
いいじゃないか。道くらい教えてあげれば。
 
ホテルオークラの雑誌広告で
「叱られなさい。」というコピーがあった。
そこにはこんなことが書いてある。
 
「お客様に叱っていただくことが、
 どんなに貴重なことなのか。
 叱っていただける信頼関係をいくつ、
 つくることができるのか。
 ホテルオークラが存在するための証です。」
 
批判をする人、クレームを言う人は
どこの世界にも、かならずいる。
やろうとおもえば、どんなことでも、
人のせいにできるから。
 
けれど、クレームを言ってくる人がいたら、
ホテルオークラの姿勢のように、
「そうか、もっとよくなるかも」と思う。
いちど怒られた相手には、
そのあと信頼回復しようとがんばれば、
それ以前よりも親密になることは多い。
 
嫉妬のような批判をしてくる人がいたら、
「それほど誰もやっていないことをできている」
と思うようにすればいいのだ。
みんなが拍手で迎えてくれるようなことは、
たいてい、もうすでに世の中で認められた、
時代おくれのものなのだから。
 
 
批判こそが、ホンモノの賞賛なのだ。
 
 
(たしかに、よしたに。)